メンズファッションイラストレーター 綿谷 寛ができるまで。

麻布テーラーといえば、雰囲気たっぷりのスーツ姿の男性のイラストをイメージされる方が多いのではないでしょうか?

そのイラストは、日本を代表するメンズファッションイラストレーターの綿谷寛画伯に、麻布テーラーが目指す世界観として表現していただいています。そんなファッションイラストレーター綿谷寛画伯は、どんな方なのかを少しではございますがご紹介させていただきます。

第1回 ―ファッションとの出会いは幼稚園くらい!? 早熟だったんで…(笑)―

綿谷さんは少年時代から、すでにお洒落だったのですか?

綿谷さん:実は、すでに幼稚園くらいから意識していたのです。家で絵なんか描いていると、周りから「上手いね」なんて煽(おだ)てられてね~、調子に乗って毎日描いていました…。絵もお洒落も早熟でしたね(笑)。早々にお洒落を意識しちゃったのは、10歳年上で『メンズクラブ』の愛読者だったアイビー好きの兄の影響が大きかったのです。小学2〜3年生(1964年〜1965年)あたりから興味が急上昇。よく兄の『メンズクラブ』をこっそり持ち出しては、それを脇に置いて、自分なりにコーディネートを考えてファッション画の真似事を描いては遊んでいましたね」

そうなのですか。どうりで、綿谷さんのイラストからファッションに対する深い愛が伝わってくるわけです。もはや綿谷さんにとってお洒落は、生活そのものなのですね。



綿谷さん:イラストのなかでもファッションイラストを描くには、スタイリスト的なセンスを要求されます。なので、小さい頃に遊んでいたことは、とっても役に立っていますね。ボクが子供の頃はまだお洒落な子供服などなかったし、男の子がお洒落をするのは悪いことのように言われた時代ですから…。ひたすらお洒落を妄想して楽しんいた…、そんな小学生時代をおくっていました。

お洒落好きからファッションイラストレーターへと。綿谷さんは、順調の道を進んだわけですね?



綿谷さん:いえいえ、ボクは最初、マンガ家になりたかったのです。小学3年のときに、母が手塚治虫さんの「マンガ家入門」を買ってくれましてね。これにいたく感銘して、当時実家が板橋だったんですが、せっせとマンガを描いては自転車に乗って練馬在住の手塚治虫さんのスタジオや、石ノ森章太郎さんのスタジオを訪ねました。小学5年の頃です。マンガ雑誌の懸賞に何度も応募後しましたが、いつも佳作で。ボクはマンガ家の才能がないのかなと…。
 


そうでしたか。ではいつ、ファッションイラストレーターになろうと? 当時、そのような職業ってあったのですね!?

綿谷さん:ファッションイラストレーターという職業を意識したのは、中学生の頃でした。中学に入って、自分で『メンズクラブ』を買うようなったのです。当時の『メンズクラブ』には、ファッションイラストレーター界の巨匠である穂積和夫さんや小林泰彦さんのイラストが毎月のように掲載されていました。それに触れているうちに、自分はマンガよりも一枚の絵で世界を表現するほうが向いているのかも…、と思うようになったのです。生意気ながら…。その頃からですね、イラストに熱心になったのは。でも本当は、イラストレーターになりたいというよりも、単にお洒落が大好きだっただけなのかもしれませんね。その延長に、ファッションイラストレーターという職業があったのです。将来はVANの宣伝部もいいなとか、デザイン会社もいいなとか、とりあえず美大を受験しようかなとか、そんなことを漠然と考えていました。

つづく


綿谷 寛 さん イラストレーター

1957年、東京生まれ。愛称は“画伯”。米国イラスト界の黄金期といわれる1950年代のコマーシャルアートの継承を目指す、日本を代表するファッションイラストレーターのひとり。2007年より本ブランドのイメージビジュアルを担当し、シーズンごとに我々が抱く理想の世界観を毎回十二分に表現し続けてくれる匠。その裏には、洋服への深い愛が存在する。気になったアイテムは、それが誕生した背景=歴史を踏まえながら自ら着こなす。そして、そこで経験した成功と失敗を真摯に受け止め、その蓄積から自らのセンスを磨き上げ続けているからこそ成しえる技。また、“画伯”の名でお目見えするスタッフの似顔絵も大好評。服だけでなく、人に対しての愛情にも余念がない(笑)。